仲良くなった人には、「焚き火職人」「焚き火ニスト」「焚き火ニキ(兄貴)」などと呼んでもらえる。それだけ頻繁に焚き火をしている印象があるからなんだろうと、自分でもこの冠をとっても気に入っている。
田舎暮らし。恵まれた環境があるからかもしれないなと、ふと思う。
「さぁ焚き火しよう」と思えば5分、10分で野営地にたどり着ける。川辺や山、水路。農家のじいさんたちもおおらかで、田んぼの隅で焚き火させてくれる。
都会にいたり、住宅街に住むと、焚き火を庭で行うことは言語道断。バーベキューも近所迷惑になってしまう時代。
「世知辛いねぇ」
ちょっと息苦しさも感じてしまう。
だから焚き火ができる場所や時間はとてもプライスレスであるなと再確認できる。
焚き火はマナーはあるし、火災を起こさない(それもマナーのうち)だけど、料理も不要でただただ炎に見とれてしまう。
火を絶やさないようウッドストーブに薪を投入し、煙がでないよう空気も調整してよき火力を一定に保つ。
便利な工業化した生活から、じつにプリミティブ(原始的)な行動への憧れがいつもある。
「生まれ変わったら第一次産業やりたいな」
「農家サイコゥ」
「漁業サイコゥ」
など、お気楽にその職業の人たちのご苦労も微塵も考えずにおもったりもする。
「もっと自然と近く生きられたらいいのに」
といいながら住宅ローンを払い、こどもたちの学費、老後を蓄えるための今の仕事はやめられない。
そう、結局無い物ねだりをしているだけ。
でもね。
人生を大きく変えなくたって、焚き火をする暮らしでハッピーにはなれる。
五右衛門風呂はきっと楽しいけど毎日薪でお風呂沸かしてたら日が暮れちゃう。東京ガスに感謝して、ピッとボタンひとつで「お風呂が沸けました」はこの上ない恩恵。
ほんとうにいい時代に生きているものだな。
と豊かさの中で、たまにそれに気がつかなかったり。人間は愚かな生き物なんだなと自分で感じる。
人間は満たされる過程のなかで「幸福」を感じる生き物。行動経済学の分野が確立する前の本になるけど、井原哲夫先生(お世話になった先生だ)が著書「豊かさ 人間の時代」のなかでそう言ってた。
五感欲求が満たされない、満たす。このギャップの大きさが大きければ大きいほど、幸福を感じやすい。
一番わかりやすいのが、お腹をおもいっきり減らして食べる料理はなんでもおいしいけど、満腹で食べる好きな料理に幸せを感じない(感じにくい)。
この幸せを得るためにギャップを人間は自ら作って幸せを得ようとするっていうパラドックス(逆説)。
人間ってじつに面白い生き物だよね。
アウトドアはその典型で、苦労した先にある御褒美なんだろうね。
そして焚き火もきっと。
もうひとつ自分の焚き火のルーツを考えてみたら、幼いとき父が家のとなりの空き地にドラム缶たててごみを毎日焼いてた。(それが許されるのどかな時代だったなとしみじみ。)
焚き火もそうだけど、不完全燃焼してるときの煙の強い匂い。目が痛くてたまらなく、涙が止まらなくてずっと目を開けれないような状態。
あれを毎日やってた。
それでもドラム缶の前にいつもいた。
炎が育ち揺らめくさまの美しさ。子供ながらにその魅力がわかったんだね。
父の焚き火ではなく野焼き、ごみ処理のルーティンがいまでも脳裏に焼け付いている。
真っ白な灰は、うまく燃焼できた証。それを庭の畑の肥料につかって。
小さな畑だったけど、父の好きな野菜や果樹も多くあった。柿、カリン、ユスラウメ(山桜桃)、グミ、葡萄棚、梅、そしてアケビも実がなるまで育ててた。
犬もいたし、うさぎもいた。古くは鶏(チャボ)を二匹かってて、庭で産み落とした卵が食卓にならんだな。
そんな父は一見なんの職業かというと、まさかの役人だった(笑)。山形の雪深い田舎で育った父には、プリミティブな部分が必要だったんだなと回顧する。
あ、庭に自分で穴を掘って濾過装置、循環装置もつけてコンクリートもつかった池があって鯉も泳いでた。決してお金持ちを想像しないでほしい。普通の一軒家の軒先に、父が頑張って少しづつDIYで作っていったアウトドアフィールド。
そのなかで育ったので今なお、私が焚き火や野営に惹かれるのかな。
今週末は焚き火にいけるかな?
焚き火にいければ良い週末。
焚き火にいかず家ですごすのもまたよき週末。
久しぶりに父に会いに行きたくなってきたよ。
あ、母は鬼籍にはいってますが、父はまだ元気に生きてます(笑)
大したギアがなくても十分アウトドアを楽しめる。それがライトキャンパースタイル
そんなアウトドアライフスタイルをYOUTUBEでも紹介しています。
是非、動画もご覧いただけると嬉しいです。